育休最終日
さて、育休最終日である。
今、私は近所のドトールでこの記事を書いている。
スタバではなくドトールで、Apple純正SmartkeybordではなくLogicoolのキーボードで。
ちなみに娘のお迎えは午後半休の夫に頼んである。完璧だ。
一年半という長期休暇を許してくれた会社と、復帰する私を温かく迎えてくれる(はずの)同僚と、受け入れてくれた保育園と、親元を離れてたくましく集団生活を始めた娘に心から感謝したい。
あ、あと一応、夫にも。
子供を産んで、一年ちょっとの間ではあるけれどとことん向き合って育てていくというのは、本当に贅沢な経験だった。
この歳になると子供のいる友達も多いけれど、私自身は自分が母になるまで子供という生き物と積極的に関わったことがなかった。
子供と一緒の生活は楽しみだけど、いざ自分が子育てをするとなるとすごく不安。
そんな私を救ってくれたのは、女医でブロガーのさーたりさんのこのインタビューだった。
https://news.walkerplus.com/article/110037/
「子育ては観察」
育児に絶対的な正解があるわけではない。
子供にも個性があるし、ペースがある。
いい母親になることは難しいかもしれないけれど、好奇心旺盛な観察者でいることはできそうだ。
そう思って、この一年半弱、ただただ娘を観察してきた。
新生児期の反射やぎこちない動き。首すわり、寝返り、ハイハイ。つかまり立ち、一人歩き、離乳に発語。
子供の発達には本当に学ぶことが多かった。
例えば、私は娘に「うれしい時や楽しい時はこうやって笑うんだよ」と教えたことは一度もない。
それでも娘はよく笑う。
寝返りも、立ち方も、歩き方も、親が教えられることは限られている。
それでも、興味のある方向へ手を伸ばしたり、近づこうとするうち、いつのまにか寝返りし、立ち、歩き出すのだ。
1歳になる頃にはちょっとイタズラしたり、親を試すような行動をすることもある。
美味しそうにイチゴを食べる娘に、「美味しそうだねー、ちょっとちょうだい」という。
すると、ちょっと差し出すフリをして引っ込める。そしてイヒヒッと笑うのだ。
逆に、発語に関しては私が想像するよりずっと時間がかかった。
1歳前後で「ママ」「バイバイ」などの言葉が出てくる子供もいるようだけど、娘が言葉を発するようになったのは1歳2ヶ月を過ぎた頃だったと思う。
(しかも、我が家では「パパママ」呼びではなく「お父さんお母さん」と教えているため、未だに私たちのことを呼んでくれない。悲しい)
でも、親や保育園の先生の言っていることに関しては少し複雑なことでも理解するようになったようで、「お絵描き終わったらクレヨンを片付けようね」とか、「お風呂行くからオムツ持ってきて」などの指示も聞いてくれるようになった。
まず体が発達し、情緒が発達し、図形や空間の認知が発達し、言語が発達していく。
言語が発達するとさらに情緒が発達していく。
最近は少しずつだけど歌もうたえるようになってきた(メロディーはなくて、それっぽい音声とリズムのみ)。
ああ、人間はこうやって進化してきたのかしら。
子供ってすごいな。っていうか、人間ってすごいな。
すっかり人間発達学にも興味を持つようになってしまった。
子供を育てることはまた、私自身のセラピーでもあった。
私は、母親と、過保護というより過干渉な父親のもとで、箱入り娘的に育てられた。
(経済的には庶民中の庶民だったので、正規の箱入り娘ではなかった)
母は私が25歳の時にガンで亡くなって、兄弟は5歳下の弟が1人いる。
子育てをしていると、子供の頃の自分や家族をふと思い出すことがある。
弟のが生まれた後、祖母と一緒に母を迎えにいって、駐車中の車のサイドブレーキを解除してしまい車が動き出し、ものすごく焦ったこと(エンジンはかかっておらず、通りがかった人が助けてくれた)。
母親が取られたような気がして寂しくて、弟を心から可愛いと思えなかったこと。
ご飯を炊く時に炊飯器の中に湯のみ茶碗を入れ、そこにお米と多めの水を入れて離乳食用のおかゆを作っていたこと。
時々私がミルク作りを頼まれたこと。
物干しに布おむつがたくさん吊るされている光景。
夕食どき、ご飯の支度で忙しい母に代わって祖父母が遊んでくれたこと。
遠い昔の記憶なのに、人間の脳ってこんなに鮮明に覚えているものなんだ、と思った。
大人になるまで、子供が生まれるまで忘れていた些細な出来事もふと蘇ったりするのだ。
同時に、辛かった記憶も鮮明に思い出された。
父と母がよく口論になって、私はそれを聞きたくなくて震えていたこと。
父のいないところで母がよく愚痴をこぼしていたこと。
保育園の卒園文集に「漫画家になりたい」と書こうとして、父に「そんな叶いっこない夢書くのはやめなさい」と叱られたこと。
中でもきっついなぁと思ったのは、母がふと口にした、「お父さんは子供があんまり好きじゃないんだよ」と言った記憶だ。
多分それは弟が生まれる前、私が3、4歳の頃の夜のことで、父親はまだ帰ってきていなかった。
どんな文脈で出てきた言葉なのか、そこまでは覚えていない。
でも、私が小さい頃の父は、仕事で帰りが遅いことが多く、私の幼少期の記憶の中に父親はいつも不在だった。
当時はまだ、母の他に父方の祖父母が健在で、私は主に母と祖父母に育てられていた感覚が強い。
物心着くかつかないかの私に母がそのように言い放ったこと、そう言われてその時の私も「なんかそんな気がする」と思ったこと。
どちらも、かなりきつい記憶だなと思う。
父との葛藤は、小学校高学年に差し掛かる頃から徐々に激しくなり、中学の時に一旦ピークを迎え、大学進学を機に親元を離れたことで一旦落ち着いてはいたのだけど、母の看病とそれに伴う出戻り後は再燃した。
そして、妊娠・出産という私の人生最大のイベントにおいても、何度も、何度も噴火した。
育児が直接的な要因となって鬱になることはなかったけれど、父との関係では度々苦悩し、区の保健師に緊急相談したり、心療内科に通ったりもした。
私が今後、父との関係を良好なものに変えていくことはほぼ不可能だと思っている。
衝突が起こらないようにうまく距離を保ち、表面的に悪くない関係を築くことはできると思うが、心から分かりあったり、信頼したり尊敬したりするのは無理だと思う。
でも、子供が私と同じ目に遭わないように、私自身が子供に過干渉しないようにしたり、夫と娘の良好な関係が育まれるように目を配ることはできると思う(もっとも、夫はかなり良識的な人間なので、父と私のようなことにはならないと思うのだけど)。
そうすることで、私自身の辛い気持ちも少しずつ癒されるような気がしているのだ。
子供はセラピーの道具ではない。
けれど、子供を通じて親が癒される側面があったっていいのではないだろうか。
さて。
育休に入る時、先輩や上司から、「出産・育児をすると、仕事に戻りたくなる人もいるみたいだよ」という話を聞いていた。
私自身はもともと、仕事ができるタイプではなかったけれど、働くことで認められたい気持ちがあり、働かないという選択肢を考えたことがなかった。
そんな私でも産後間もなくは、ホルモンの影響なのか、娘が可愛くて可愛くて仕方なく、娘と離れて仕事をするなんて考えられず、「あー、このまま専業主婦っていうのも悪くないかなー」なんて思っていた。
そんな私も、娘の離乳食が始まるにつれ、つまり娘との物理的な接触時間が少なくなるにつれて、ホルモンの分泌も減り、「ああ、なんか働いてない自分、不安」と明確に認識するようになった。
同時期に出産した友人が一足早く復職した影響もあったかもしれない。
子育てや家事にやりがいを感じ、子供や夫に感謝されることに喜びを見出す生き方もあるかもしれない。
でもそもそも私は家事がポンコツで、娘といえど四六時中一緒にいるのは「ちょっと窮屈かも」と感じるタイプだった。
働いて、お金を稼いでいるから家事がポンコツでも開き直れていたのだが、夫の稼ぎに依存しながら家事がまともにできないというのは流石の私でも申し訳ない気がした。
それに、そもそもの自己肯定感が低い私は、仕事をして認められたり感謝されたりしないと、自分を褒めてあげられないタチだと気づいたのだ。
仕事をして、対価としてお金をもらい、クライアントや上司、同僚から感謝されるのは、承認欲求を満たす手段として手っ取り早い。
だったら、育児との両立はしんどいかもしれないがとりあえず復職してみよう。どうしても辛ければ、もう少しゆっくり働ける職場に転職すればいいやと思ったのである。
というわけで、来週の月曜日から本社に出社し、来週中にはクライアントワークに戻る。
正直、1年半もブランクがあって、最初はまともに働けるはずもないだろう。
でも、業界的に人手不足であるらしいこのご時世、ブランクあり定時上がりの私であっても、いないよりはマシなはずだ。
地味で他人がやりたがらない仕事を引き受けてもいいし、新人の育成に注力するものアリだ(赤子に比べれば成人の教育はずっとやりやすいはずだ。まず言葉が通じるし)。
社内のダイバーシティプロジェクトに参加してもいいだろう。
折しも、働き方改革が叫ばれる中、男性的長時間労働という世の中のスタンダードはこれから変化していくだろう。
そんなタイミングで、残業ができない当事者として、社会の変化にどう対応していくか、むしろ私自身が働き方をどう改革していくか、取り組んでいくのはエキサイティングなことなんじゃないかと思っている。
2週間くらいしたら「疲れた」と心が折れている自分の姿が目に浮かぶが、それでも今は、復職を楽しみにしている。